風景・景観の復権――重要文化財日本橋の上を通る首都高速道路の移設議論から

(2006.5.12; 2006.7.2改訂)

大阪府教育委員会文化財保護課主査 林 義久

大阪大学名誉教授 畑田 耕一

本稿は、毎日新聞(平成18年3月18日 朝刊12面)に掲載された『主張・提言・討論の広場』論点(高速道路の移設問題)に対しての私たちの意見です。

ご存知の方も多いかと思いますが、東京の日本橋川に安藤広重の浮世絵や、「お江戸日本橋七つ立ち・・・・」の歌で有名な日本橋が架かっています。この日本橋は五街道の原点として国土計画の起点となった橋でもあります。もっとも現在の橋は江戸時代のような木製の太鼓橋ではなく、明治44(1911)年に架けられた石造アーチ橋で、平成11(1999)年に近代化遺産(近代産業遺産)として国の重要文化財建造物に指定されています。

このように貴重な文化遺産として評価され指定された日本橋ですが、昭和39(1964)年の東京オリンピックの開催に際して川の上に首都高速道路が通され、日本橋の上を交差する形で首都高が走っています。日本各地で景観が再検証される中、日本橋地域では地域の活性化を含めて、日本橋の上を通る首都高速を移設しようとの動きがあり、首相肝煎りの有識者会議「日本橋川に空を取り戻す会」は、今年9月の提言に向けて移設等の検討をはじめています。

高速道路が川の上や道路上を走る景観は日本の大都市の特色といってもよいくらいで、私たちが住む大阪でも同様です。大阪は今「水都大阪」を謳い揚げて川辺の整備を行うことにより、江戸時代以来の水の都としての特色を甦らせ、賑わいのある住みよい都市を復活させようとしています。しかし、東横堀川他では、主役である川(水路)の川面に、太い支柱を突き刺して高速道路が走っており、橋の多さを象徴的に“浪華の八百八橋”と呼ばれた橋たちは、空を望めない薄暗い環境で排気ガスにまみれて意気消沈の有様です。このような状況では水の都の再生も掛け声だけになってしまいかねません。日本橋上の高速道路問題は、首都東京だけの問題ではないと考えます。

上記の新聞記事には3名の主張が紹介されています。論点を要約すると、落語家の林家木久蔵氏(69歳)は、「東京生まれの人間にとっては日本橋の上に高速道路があるのは“かっこ悪い”」として、「理屈じゃないんです」と述べたうえで、「日本橋という町全体の再興は、今の日本文化の基礎を知ることです。高速道路の撤去ってのは、その象徴ですよ」として、「日本橋の景観を取り戻すのは、日本人一人一人が埋もれてしまった懐かしさの染色体を取り戻すことだと思います。」と述べています。

一方、東北大学の五十嵐太郎氏(39歳)は、日本橋上一帯の高速道路は、「都庁の技官、各地の産業界が立ち上がり、世界の道路技術者をうならせた奇跡の道路だったという。」として、その技術性に重点を置いた評価と移設の非経済性と「はたしてヨーロッパ人は、西洋の都市の橋に比べて見劣りする洋風の日本橋を見て、美しい日本だと思うのだろうか」という観点から、「橋の上に橋を架ける暴力性にこそダイナミックな日本都市の構成を感じるのではないか」と述べ、現状の存続を主張しています。

これらの意見に対して、東京大学の篠原修氏(61歳)は、首都高速の建設経緯の分析とその後の時間経過の中での首都高の評価を踏まえ、「問題はデザインの良し悪しではなく、都市景観に関する理念と都市の場所性の判断にある」としています。場所性の判断とは、日本橋川は江戸城築城の際にはじめて掘られた運河であり、首都東京の原点、また、日本橋は五街道の原点として国土計画の起点になった橋であるということであり、移設による江戸時代以来の誇りの取り戻しを強調しています。

このように日本橋の現状に対して、それぞれに違った見方、考え方がありますが、それぞれの人の年齢からも明らかなように、育ってきた世代による世界観や時代的背景の違いも影響しているように思われます。ちなみに私たちは、木久蔵氏の“かっこ悪い”、“理屈じゃない”という感性を強く賞賛します。もっとも、木久蔵氏は単に感性だけでものを言っているのではなく、江戸っ子として江戸落語の世界で鍛えられた“情緒”に裏打ちされた結論を述べているように思います。

 私たちは五十嵐氏と同様に、日本の橋梁技術やトンネル技術、そして高速道路技術が世界的にも優れている事実は肯定的に受け止めていますし、世界に誇れるものと考えています。また、移設には莫大な費用がかかることも十分に理解できます。

しかし、川(運河)を痛めつけるようにして巨大な支柱を突き刺す高速道路が、重要文化財の日本橋の位置で交差して、橋を覆い尽くす姿で表われている風景は自慢できるものではありません。これを「橋の上に橋を架ける暴力性にこそダイナミックな日本都市の構成を感じる」とする表現は私たちの感性では理解できません。

高速道路建設技術の優秀性や経済効率性という分かりやすい理屈と比較して、篠原氏や木久蔵氏が述べる、日本橋上を横切る首都高速に対して日常生活者が感じるうっとうしさ、江戸っ子の誇りや地域としての誇りの復権というどちらかと言うとわかりにくい、いわば感覚的な部分こそが、今の日本、日本人にとって極めて必要かつ重要なことのように思います。

日本各地で風景・景観についての問題が提起されるようになって久しいですが、最近、最高裁で出された「国立マンション訴訟」判決では、景観利益と景観権について、「都市の景観は、良好な風景として、人々の歴史的または文化的環境を形作り、豊かな生活環境を構成する場合には、客観的価値を有する」という、司法の判断を下しています。今回の重要文化財日本橋の上を走る首都高速道路の建設は、日本の戦後の復興を内外に示す国家的イベントとしてのオリンピックに向けて、国の総力を挙げて成し遂げたインフラ整備の一つですが、当時は、今ほど景観に配慮するゆとりが無かったのではないでしょうか。

戦後の高度経済成長を経てバブル景気とその崩壊を経験し、日本人は今ようやく環境破壊や資源問題を理解できるようになり、物質文明一辺倒に対する反省も含めて心の中に何か空ろなものを感じつつ、伝統文化の見直しや、本当の幸せとはなにか、豊かさとはお金や物だけなのか等々、自問自答している昨今です。日本橋地域で議論されている問題は、一見曖昧なように見えるものの、風景・景観が人間としての誇りや豊かな感性を育てる背景となることを人々に示しているように思われます。

私たちは、橋の上に高速道路を重ねた構成に美は感じないし、これを諸外国に誇ろうとも思いません。五十嵐氏がその主張の中でいみじくも述べているように、「仮にお金がかかっても、優れた建築が後世に長く残るのであれば、反対しない立場を取っている。」というのであるのなら、高速道路の移設は、莫大な費用がかかるにしても、優れた構造物(重要文化財指定の日本橋)と、江戸っ子の感性に裏打ちされた風景を後世へ継承するきっかけになると考えます。

一歩譲ってこの明治の日本橋が、五十嵐氏が述べるように、「西洋の都市の橋に比べて見劣りする洋風の橋」であったとしても、木久蔵氏が主張する、「日本橋という町全体の再興は、今の日本文化の基盤を知ること」という主張の方が、極めて合理的で妥当な結論と言わざるをえません。

(追記)

 その後、平成18年6月13日早朝のNHKニュースによると、有識者会議の現在の状況として、重要文化財日本橋の上を走る首都高速道路については、高速道路の地下化による解決案が取り纏められたとし、その費用は国、東京都、地元企業から捻出することが検討されており、今秋に正式な報告が出るようである。

 まことに喜ばしいことで、このニュースが、高いお金をかけてでも人間が人間らしい感性を養うために、良好な景観を取り戻すことの大きなきっかけになればと願っている。日本橋の問題だけでなく、日本全国で起こっている様々な景観・風景問題を、経済的合理性や利潤追求の立場のみから解決しようとするのではなく、規制するべきことはきっちりと規制して、人間にやさしい品格のある景観の保存と創出に努力するべきと考える。


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